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	<title>PingMag Risa - 「地方力再発見」マガジン</title>
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	<lastBuildDate>Fri, 21 Nov 2008 10:01:17 +0000</lastBuildDate>
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		<title>老舗水晶店ー匠の技から先端技術まで：土屋華章製作所</title>
		<description>**水晶というミステリアスな存在。最近では、パワーストーンとしても人気を博している鉱物です。山梨県[甲府市](http://www.city.kofu.yamanashi.jp/contents/)は、水晶の産地として知られる土地。今回、PingMagRISA（ピンマグリサ）では、ここに江戸時代から水晶で商売を営む[土屋華章製作所](http://www5b.biglobe.ne.jp/~kasho/tsuchiya_001.htm)を訪れました。「水晶」というキーワードだけを追求し繁栄してきた一家には、一筋縄ではいかない物語が隠されています。昔から、不思議なものの代表として扱われてきた水晶。今回は、山梨甲府を代表する水晶店である同店を通じて、そのミステリーに迫ってみたいと思います。**


店に並べられる水晶彫刻。非常に高度な技術が必要とされる


**水晶って、何？**

水晶は、石英と呼ばれる鉱物が結晶したものです。石英というのは、地球という惑星では、一番多いと言われる鉱物なのですが、それが結晶化されると、さまざまな美しい宝石に様変わりするという具合です。まだ科学が発達する前の日本では、水晶は氷の化石だと信じられていたそう。ちなみに、水晶には、いろいろな種類のものがあります。紫水晶（アメジスト）、紅水晶（ローズクォーツ）、針入り水晶、日本式双晶などです。世界的な産地として名を馳せるのは、ブラジル、アメリカ、中国、アフリカ、スイスなどで、国内の産地としては、山梨県甲府市、岐阜県中津川市、愛知県春日井市、長崎県五島市などが挙げられます。ちなみに、水晶を名に冠した、水晶岳（富山県富山市、飛騨山脈）や水晶峠（山梨県甲府市、金峰山周辺）という場所も日本には存在していて、水晶の存在はなかなか密接に日本の土地に根付いているようです。



**ミステリアスな匂い**

では、水晶がどうして不思議な石として扱われるかについてを少しだけ探ってみたいと思います。基本的な考えの土台には、この石が持つ特殊な波長があります。後で、詳述しますが、水晶は一定の周波数で振動する特性を備えていて、その超超超微細な周波数の振動が、人に何らかの影響を及ぼすかもしれない。つまり、そんな事実が不思議な力を持っているのではないか、という事実に結びつけられたわけですね。ただし、それも全く信憑性のない話かというと、そうとばかりは言えないようです。ジャーナリストの[立花隆](http://chez.tachibanaseminar.org/)氏は、自著でジプシーの占い師が用いる水晶にまつわる事例を集めたところ、一般的にはいかがわしいもののシンボルでもある水晶の玉を眺めることでさまざまなイメージが浮かびやすくなるという実験結果もあったと報告しています。さらに立花氏自身や身内の人間で試してみても、確かに奇妙なイメージが浮かんだと、客観的にその力をほのめかしています。こうなると、水晶が何らかの情報を伝達する力があるという可能性も大きくなってきますね。

水晶の玉を抱く龍の水晶彫刻。山梨県の三富村には、龍神の滝もある

この商品を発案したのは、若手の職人さん。なんと、米国の大学を卒業し、国際会計士の資格も保持しながら、水晶彫刻職人の道を歩んでいるそう



**江戸時代に創業した水晶店**

さて、そうした不思議な力があるかないかはさて置いても、少なくとも多くの人が感じることは、「水晶は美しい」ということです。そして、水晶を眺めていると、心が休まると感じる人も、多いのではないでしょうか。だからこそ、水晶というものは、長きにわたって人々に求められてきたわけです。そんな水晶と江戸時代から向き合い続けてきた店が、土屋華章製作所。はっきりした創業年は不明ですが、嘉永5年（1852年）には創業していた水晶屋さんです。150年以上もの長きにわたりひとつの道、水晶の道を追求し続けるのは、並大抵のことではありません。その道を歩み続けた土屋家の人物らは、よほどの堅い信念や水晶への愛を持っていたに違いありません。同店の現店主土屋氏は先人を振り返り、こう語ります。「私の先代は、商売人として優れた人でしたが、同店の店名にもなっている先々代の土屋華章はものづくりの天才でしたね」。


**土屋華章という人物**

孫が彼は天才だというのだから、その才能とやらがどんなものであるのは気になるところです。まず、彼の天才性というものは、一体、どんな点を指して言われていることなのでしょう。「何しろ、彼は、自分がつくりたいと思ったものを形にするためには、その機械からつくってしまう」（土屋社長）。その代表的な機械というものが、モーターで水晶を加工する機械です。それまでは、すべて人間の手の力で彫られていたそう。だから、クオリティの高い精密で均一な加工のされた水晶の生産体制が確立されたのは、水晶彫刻の世界では画期的な発明だったわけですね。このことに関しては、かの有名な作家・[井伏鱒二](http://ja.wikipedia.org/wiki/井伏鱒二)氏も、随筆の中で触れているくらいなので、よほどこの甲府の土地では名の知れた人物だったのでしょう。

これは彫刻を行う研磨加工用機械の先端に取り付けるカッター

職人さんが右手で握るのがカッターの取り付けられた研磨加工用機械




**エリート学者と職人**

「今、この甲府の地で、水晶彫刻をしている職人は、みんな祖父の弟子か孫弟子のどちらかです」（土屋社長）
土屋華章氏が育てた弟子は、、有に100人を超えるといいますから、甲府の水晶彫刻の歴史は、彼なくしてはなかったと言っても間違っていないわけですね。そして、その弟子職人に混じって、水晶研磨の技術を学んだ者の中にはユニークな人物もいたようです。彼の名は、[古賀逸策](http://jp.fujitsu.com/about/journal/offtime/japanesespirits/20081104/)、当時は[東京工業大学](http://www.titech.ac.jp/home-j.html)の助教授だった人物です。でも、一体、どうして、そんなアカデミックな世界のエリートが、山梨県の甲府にある水晶屋さんに通っていたのでしょう？「実は、古賀逸策という人物は、研磨カットの技法や技術を学ぼうとしていたんですね」（土屋社長）。なるほど、勘のいい読者なら、何となく、彼が目指していたものがわかるかもしれません。そうです、彼は水晶振動子を研究していたのです。


**伝統工芸から生まれた水晶振動子**

水晶振動子とは、正確な振動数を得たいときに使われる部品です。簡単にわかりやすいイメージで言えば、それは小さな小さな振り子時計の振り子です。水晶には、不思議な特徴があります。それは、水晶を電池につないで電圧をかけると水晶がバネのようにビヨヨンと振動するというものです。この特徴を活かした部品が、水晶振動子というものになります。つまり、古賀氏は、この水晶振動子の研究をしていたことになるわけですね。「ある角度で加工すると温度の変化を受けずに、波動の変化が少なくなるから、その”ある角度”をつきつめたい」、それが古賀氏が土屋華章氏の門を叩いたときの想いであったようです。そして、ここで生みだされたカットが、古賀カットと呼ばれる、安定して正確な振動の波をつくる水晶振動子「零温度水晶振動子」として昇華するわけです。

山積みにされた水晶。そのままの無骨な雰囲気もなかなか魅力的

水晶のクラスター。まるで水晶の森のようなたたずまい




**世界初のクォーツ時計**

読者の中には、「クォーツ時計」という言葉を聞いたことがないという人は、めったにいないでしょう。何を隠そう、そのクォーツ時計＝水晶時計の発案をして、第1号機を完成させたのは、この古賀氏なのです（ちなみに、製作した場所は、1933年の東京天文台です）。そして、その土台にあったのが、同店の土屋華章氏との恊働研究の成果、古賀カットだったわけです。現在、水晶振動子の存在は、時計に留まらず、携帯電話やパソコンなど、幅広い製品の中に入れられています。「伝統工芸というと、古くさいものだと考える人もいるかもしれませんが、実は、そうとばかりも言えないのです。どうしてかと言えば、そこで生み出された匠の技が思いもよらない場所で先端技術として活用されるケースは少なくないからです。それは、セラミックが焼き物の技術から、クーラーのフィルターが和紙の技術から生まれているのを見ればわかることです」（土屋社長）。なるほど、水晶彫刻の世界で、超一流の技術が、当時の最先端の技術につながっていったというのは、何とも面白い事実ではありませんか。


**才人多い家柄**

エリートエンジニアであり、文明の進化に貢献した人物が頼ってやってきた職人が、いかに高い技術を持っていたのか。それは、容易に想像のつくことでしょう。でも、この土屋華章製作所、ユニークな人物、才能のある人物は、彼だけではなかったようです。「私の家系は、代々、それぞれ違ったことを成し遂げる血筋のようです。初代が水晶細工製品を売り出す事業を起し、2代目は眼鏡の研磨をはじめ、3代目は水晶や石の印鑑をつくり、4代目がモーターで水晶彫刻をはじめる、といった具合です。実は私も、いろいろな機械を発明したことがあるんですよ。そのうちのひとつの機械を使って、アメリカに月に100万個の製品を送っていたこともあるんです」（土屋社長）。月100万個！というのは驚きです。一体、どんな機械なのかは、ヒミツのようですが、想像を絶するものであることだけは間違いありません。


動物の解剖図を参照しながら前後左右上下、あらゆる角度からリアルな彫刻をしていく

無造作に置かれているが貴重な天然水晶



**芸術としての水晶彫刻**

ちなみに、この土屋社長、実は、「芸術家」という肩書きを追い求めて生きていた人物でもあるのです。「私は、[アリスティド・マイヨール](http://www6.ocn.ne.jp/~bmline/theaterbrain/entrance/mai01.htm)の弟子、[山本豊市](http://ja.wikipedia.org/wiki/山本豊市)という彫刻家に7年ほど弟子としてついていたことがあるんです。だから、言うなれば、私は、マイヨールの孫弟子ということになりますね（笑）。でも、当時は、本気で彫刻の道を極めて、彫刻家になるつもりでいたんです。イタリアにも留学して、より深く彫刻を勉強する気でいましたからね」（土屋社長）。しかし、その夢叶わず、父親に呼び戻されて、家業を継ぐことになったわけです。「葛藤はありましたし、今だに、”彫刻家になってたらなぁ”という気持もあるんですよ」（土屋社長）。しかし、そんなことを言いながらも、水晶彫刻の道には、類似性も見いだしているようです。「芸術というものは、偶発性の中から生み出されるもの。しかし、民芸品は、100個あったら100個同じクオリティの同じものがつくれなければいけないんです。ウチのお店では、そのクオリティのものはつくれる。では、これから、私が何をしたいか？と問われたら、私は、芸術作品としての水晶彫刻をつくりたい。芸術の分野で評価を得られる、表面だけ美しいというのではないものをつくりたい、そう思っているんですよ」（土屋社長）。三つ子の魂百まで、どうでしょう、このアーティストマインド。やはり、芸術を愛する心は、簡単には変らないようです。今も、日に2、3時間は、机に座り、水晶彫りに精魂を込める土屋社長の、次なる飛躍は水晶職人でも、水晶商人でもなく、水晶彫刻家といったところなのでしょうか。今後、彼がどんな作品を生み出すのか、是非、見守っていきたいものです。


現同店の店主である土屋穣氏。芸術家肌のオーナーです


**水晶店を訪ねる旅**

さて、この土屋華章製作所は、山梨県の甲府駅からバスで10分ほどいったところにあります。店内には、ずらりと水晶の商品が並びます。工房も併設されており、事前に予約をすれば、工房見学も可能です。甲府までのアクセスは、東京からであれば、中央自動車道やJR中央本線を利用できるので、想像よりもずっと楽チン。ついでに、もっとゆっくり山梨県近郊を楽しみたい方は、近くにある、手頃な料金で知られる[ファミリーロッジ旅籠屋](http://www.hatagoya.co.jp/)の韮崎店、小淵沢店、山中湖店などに1泊するのも、手かもしれないですね。暇な休日、是非一度、訪ねてみることをお薦めします。豊かな緑と美味しいホウトウをすすりつつ、美しい水晶彫刻を眺める旅というのも、なかなか趣き深いはず。水晶土産を買うにしても、直接訪ねれば、そこに自分だけの物語が付け加えられるわけですから、水晶が一層大切な宝物になるのは請け合いです。おまけに水晶が引寄せるマジックで、人生に幸溢れる運気がもたらされるかもしれないですよ。




[土屋華章製作所](http://www5b.biglobe.ne.jp/~kasho/tsuchiya_001.htm)
山梨県甲府市湯村1-13-11
055-252-3485

取材／鈴木隆文

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		<link>http://risa-mag.com/2008/11/21/tsuchiya/</link>
			</item>
	<item>
		<title>手織り絨毯、緞通というもの：オリエンタルカーペット</title>
		<description>**床座が当たり前だった日本の生活は、いつからか椅子座に変り、私たちの生活様式は一変しました。しかし、そうは言っても、遺伝子に組み込まれた床座への記憶は、そう簡単に一掃されるはずもありません。何よりも日本の住宅では靴を脱いで室内空間にあがるのが当たり前だから、床は汚れにくくなります。つまり、床にゴロリと座り、心身をくつろがせることができるというわけです。そこで注目したいのが、絨毯です（[PingMagRISAーピンマグリサ](http://risa-mag.com/2007/10/18/shikisai/)が昨年レポートした[ホテル四季彩一力](http://www.ichiriki.com/)の貴賓室にも素晴らしい絨毯がありました）。今回、訪れた会社は山形県にあるオリエンタルカーペットという絨毯メーカーです。もはや日常生活から、切り離せない絨毯という存在。この絨毯を、今も手織りで製造して、絶大な信頼を勝ち得ているのが同社なのです。**



ひびのさんが気に入ったオリエンタルカーペットの図柄の、かわいらしい壷







**絨毯とは何か？**

皆さんは、絨毯の歴史はいつはじまったものだと思いますか？　絨毯と聞いて、パッと頭に思い浮かべるものは何でしょう？絨毯を英語で表現すると"carpet（カーペット）"や"rug（ラグ）"ということになります。もしかしたら多くの人は、ヨーロッパやアメリカのようないわゆる西洋の文化を想像するかもしれませんね。しかし、事実はそうではなさそうです。絨毯の歴史、それは人類の歴史とともにはじまったものと言っても過言はないもの。例えば、それは地面の冷たさを毛皮でしのぐものであり、はたまた、それは地面の熱を草木の皮でしのぐものであったそうです。王室に敷かれた絨毯から、原住民の使う絨毯まで、絨毯というものは、世界の至るところで活用されてきたモノなのです。



フェラーリをデザインしたこともある奥山清行氏との恊働プロダクト



スケッチだと色の鮮やかさにかなり強いものを感じるが、絨毯としてできあがると、色味が大分落ち着くようです



**絨毯、日本の歴史**

では、日本における絨毯の歴史はどうでしょう。実は、これも、私たちが想像するよりはきっとずっと古いもののようです。歴史の書物をひもとけば、最初に絨毯が登場するのは、何と、「[魏志倭人伝](http://www.max.hi-ho.ne.jp/m-kat/gisi/)」、卑弥呼のいた、3世紀の頃のことです。そこには、魏の皇帝が女帝卑弥呼に贈ったと記されています。今から遡ること約1800年前に絨毯が日本にやってきていたというのは、スゴイ話です。そして、毛氈（もうせん）と呼ばれるフェルトの絨毯は、８世紀にはつくられていた。さらに、17世紀には、緞通と呼ばれる人の手によって織られる敷物が、佐賀ではじめて織られることになるわけです。「鍋島緞通」「相良緞通」「赤穂緞通」などという言葉が各地で残っているところを見ると、絨毯というものは、江戸の時代には、お金持ちたちの間では、いくらかは普及していたものだったのではないでしょうか。




こうやって図案は精密に絨毯へと書き写される



**絨毯の普及**

しかし、庶民たちが絨毯を手にするのは、それからだいぶ後のこと、高度経済成長の時代の話です。東京オリンピック、ビートルズ来日、大阪万博などなど、そんな時代まで来てようやく大衆の住宅にも絨毯を購入して、床に敷くという家が増えていったのだそうです。それまでの一般の日本の住居は、畳か板張り（フローリング）ということになるわけですね。思えば、住環境というのはたった数十年で激変をしてしまう。その様子が、絨毯の歴史を追うだけでわかるのは面白いものです。フローリング、畳、そして絨毯、それぞれ長短はありながら、やはり温もりのあるくつろぎ感となると、絨毯の右に出るものはありません。しかも、それが手織りの絨毯となれば、ひと際違った安心感を得られるわけです。そして、この緞通と呼ばれる、手織り絨毯を形にしてきたのが、オリエンタルカーペットという会社なのです。



山形市内から車で20分位のところにあるオリエンタルカーペット本社。古めかしい建物は見物です




オリエンタルカーペットの社長・渡邊博明氏


**手織り絨毯のつくり方**

さて、それでは、手織り絨毯というものが、一体、どんなものなのかを見るために、ここでは、そのつくり方を一望してみましょう。工程としてあるのは、次の通り、大きくは6つの作業から成っているものです。［１］図案の作成（文様を寸法に合わせて方眼用紙に描く）、［2］合糸（経糸、緯糸、染められ織込み糸の、それぞれの糸をそれぞれの太さによる）、［3］経糸かけ（出来上がる絨毯の横幅に合う経糸を織り付き棒で機に張る）、［4］あぜ拾い（機一面に張った経糸をあぜ棒で一本置きに拾い、緯通しのときの棒を引くことで、緯糸を交差できるようにする）、［5］織り（図案をもとに経糸をつまみ上げ、織り糸を絡ませ片結びをしていく）、［6］緯通し（締金で織込糸を密度が均一になるようにたたき締めながら、緯糸を織りの一緞一緞に織込んでいく）の6工程。手織り絨毯がつくられる工程は、基本的にはこの6つです。





工場で働くスタッフはほとんどが女性！


後ろに吊されているのが方眼紙。手先の器用さが要求される仕事ゆえ、女性の方が作業に向くのだそう



**オリエンタルカーペットをオンリー企業にしているもの**

しかし、オリエンタルカーペットという会社は、違います。糸を紡ぐ、染める、織るなどの工程の後で、さらにマーセライズ（化学艶出し仕上げ）と呼ばれる磨く工程を入れているのです。こうすることで、絨毯には、優美な光沢と、しなやかな感触が加えられるようになるわけです。マーセライズの工程で行われるのは、織り上がった絨毯を化学溶液に浸してから、ブラシで磨きあげるという作業です。これによって、柔らかく美しく、そして強い絨毯ができあがるというわけです。しかし、このマーセライズという技術が使えるのは、オリエンタルカーペットをおいて他にありません。「元々は、昭和10年頃に、中国から技術者を呼んで学んだものなのです。緞通の製造方法を学ぶ間に、このマーセライズという技術も学んだわけですね。でも、この技術、今は、日本でも、中国でも、他の世界のどの国でも真似できないんです。つまりウチだけにしかできない技術ということになります」（渡邊博明社長）。








マーセライズの作業はここで行われる。絨毯が化学溶液に浸され、ブラッシュされるのはここ


**驚きの納入先**

さて、そんな素晴らしい技術を誇る同社のカーペット、実際に手で触れてみて、驚くのは、その柔らかさと弾性です。一度、肌に触れると、病み付きになって、そこから手を離したくない気持すら沸き上がってきます。日曜日なんかに、この絨毯の上に寝転ぶことができたら、どんなに気持ちがいいことでしょうね。そして、もうひとつ驚かされるのは、そんな素晴らしい手触りの絨毯が納められる先の建物です。それらをズラリと並べてみると、[皇居新宮殿](http://www.tada-ken.co.jp/a-1.html)、[京都迎賓館](http://www12.plala.or.jp/ochikasan16/geihinnkan.html)、最高裁判所、アメリカ合衆国大使館、[バチカン宮殿](http://ja.wikipedia.org/wiki/バチカン宮殿)、日本銀行、[帝国ホテル](http://www.imperialhotel.co.jp/index_j.html)、[ホテルオークラ](http://www.hotelokura.co.jp/tokyo/index.html)、[清水寺](http://ja.wikipedia.org/wiki/清水寺)、[大本山増上寺](http://www.zojoji.or.jp/)、[成田山新勝寺](http://www.naritasan.or.jp/)、[鶴岡八幡宮](http://www.hachimangu.or.jp/)、[春日大社](http://www.kasugataisha.or.jp/)という具合。どれこれも、威厳に溢れる場所ばかりです。特に、ローマ法王のいるバチカン宮殿というのは、なかなか身近な世界の話ではないだけに、反対にミーハー心をくすぐられてしまいます。「今、現在では、世界的に見ても、大きな面積の手織り絨毯をつくれる会社というのは、本当に少ない。日本では、当社しかありません」（渡邊博明社長）。質の高い絨毯を製造する体制づくりを堅実に長い目で見て行ってきたことが、現在の同社の成功に結びついているわけですね。





1965年バチカン宮殿の絨毯。ローマ法王パウロ6世の就任を記念して、全米枢機卿より絨毯が献上。ローマ法王謁見の間、祭壇前、通路用の絨毯が納入された。


**絨毯**

では、一般の人は、この絨毯をどこで楽しめば良いのでしょう？そんな疑問をお持ちの方には、同社の[オンラインショップ](http://www.oriental-carpet.jp/shop/index.html)にアクセスするか、近くの[大塚家具](http://www.idc-otsuka.co.jp/)に尋ねてみることをお薦めします。小市民には、決して安くはない同社の手織り絨毯ですが、洗えば何十年も極上の肌触りを楽しめるということを考えれば、むしろリーズナブルですらあるのかもしれません（ちなみに、今、同社のオンラインショップでは、戦艦「大和」「武蔵」の長官室ドアマットの復元品というものを販売しています！これは男性の読者には、得も言えないロマンが感じられる一品かもしれませんね）。子供やお年寄りにとっては安全、ホコリや湿気は包み込んで清潔、騒音や振動を抑えるために防音効果も、そしてさらには、エアコン温度を低めに設定しても温度を保ってくれる保温性を考えれば、省エネ効果もありと、いい事尽くめの絨毯。特に、これからやってくる冬の季節には、もってこいかもしれません。畳の良さ、フローリングの良さなど、再び新しい目で見直されてきている床文化。この床文化、地に足をつけて生活をしてきた人類のひとりとしては、見過ごすことのできないことなのかもしれませんね。

これはホテル四季彩一力の貴賓室。


取材／鈴木隆文（ピンマグ リサ編集部）













 </description>
		<link>http://risa-mag.com/2008/11/14/orica/</link>
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	<item>
		<title>デジタルで織る伝統：織元山口</title>
		<description>**「伝統とデジタル」、そんな言い回しは、どこかで聞いたことがあるかもしれません。「伝統と現代の融合」というのは、最近はよく聞く話です。ところが、今回訪れた[織元山口](http://www.yamakuchi.co.jp/)は、その融合の度合いが並大抵ではない。仕組みや技術、そのものから融合してしまい、世界さえもアッと驚かせてしまっているのです。この織元山口の技術に触れると、以前に取材したホテル「[四季彩一力](http://www.ichiriki.com/)」の圧倒的な空間美が思い起こされます。さて一体、その技術とはどのようなものなのでしょうか。**


近くに寄ってみると、織り上げられるのがわかる。この意外性！


**緞帳の思い出**

小中高校の体育館や公民館などのホールなどで垂れ下がっている緞帳（どんちょう）の存在。きっとほとんどの人が、その存在に対して、何か強い感情を抱いたりすることはないはずです。それでも、ふと学び舎の記憶をたぐり寄せれば、「えんじ色だったな」とか「不思議な模様があったな」とか「端がすこしほつれていたな」とか、何かしらの思い出が蘇ってくるのではないでしょうか。青春の記憶というのは、何とも言えないノスタルジーをともなって、脳裏に焼き付いているもの。さり気ない存在であるはずの緞帳が、その記憶の手がかりになることは不思議ではありません。何しろ巨大な幕、否が応でも目には飛び込んでくるわけですから。今回、訪ねた織元山口は、この巨大な思い出のキャンパスに自由自在にさまざまな図柄を描くことのできる会社です。これを出来る会社は、日本だけではなく、世界でもここだけです。


緞帳のある空間。一般的には無地のホールや学校も多い


**米沢織物、ヨネオリ**

さて、先述の織元山口が拠点を構える場所は、山形県にある[米沢市](http://www.city.yonezawa.yamagata.jp/)。この辺りは、米沢織物、通称「米織（ヨネオリ）」で知られる土地です。今は、世界一流の高級婦人服ブランドや高級呉服のためのテキスタイルを産出し、ファッション業界の多くのクリエイターらが生地を買い求めに訪れる場所でもあります。その特徴は、細番手（原毛が細いこと）で先染め（布にする前の状態で染色すること。色表現に深みがあり品位が高い）で高密度（織られる糸の密度がつまっていること）。つまり、日本的なデリケートさとセンシティブさを備えた生地と言えるわけです。この産地の起源は、江戸時代にまでさかのぼります。その頃、酷い財政難に陥っていた上杉藩、そして、この財政難をある策で立て直そうとしたのが[上杉鷹山](http://ja.wikipedia.org/wiki/上杉鷹山)です。そして、その策というのが、将来、米沢織物と呼ばれるようになる織物製造だったわけです。面白いのは、鷹山が家臣の武士らに推奨してはじめたというところ。階級が武士であっても、内職をしなければいけなかったというのは、歴史の教科書からは学べないことかもしれません。

雑草を写真に撮り、出力された作品。山口社長の言うように、虫になったみたいな感覚が得られる

織られる糸は天井から下がっている


**織元山口**

さて、そんな米沢という土地で、織元山口が商売をはじめたのは大正12年。現社長・山口英夫氏の祖父にあたる山口憲一氏が、「山口織物有限会社」として組織を設立したのがはじまりです。その後、大正、昭和、平成という時代の荒波をくぐり抜けて現在に至るわけですが、元々は、メーカーというよりは、職人の工場というのがふさわしい呼び方だったのかもしれません。というのも、職人がひとつひとつの工程を丁寧に織り上げていく、まさに伝統的なヨネオリで成立っていたのが、かつての同社だったからです。ところが、現在の織元山口は、違います。伝統の織の技術にデジタル技術を見事に融合させて、21世紀の織物メーカーと呼ぶにふさわしい活動を行っているのです。それは、まさに伝統にして最新と呼べる革新的な仕事なのです。


**PCの原型、ジャガード織**

織元山口には、世界ではここでしかできないという写真織「フォトテックス」という技術を確立したメーカーです。しかし、その技術を説明するには、まず、その技術の土台となる[ジャガード織機](http://ja.wikipedia.org/wiki/ジャカード織機)というものを知っていてもらわなければなりません。ジャガード織機とは、今から約200年前に発明された織り機のこと。これは織るときに縦糸を自動的に上下に開口してくれる画期的な機械です。面白いのは、この機械の原理が、穴のあいた紙、つまりパンチカードを用いて行われる点です。紙に穴があいているかいないかで、たて糸に上下開口の命令が送られるわけです。そう、その仕組みが「0」と「1」の信号から成立つコンピュータにそっくりなのです。それもそのはずで、200年に発明されたこの機械こそ、私たちが日々の生活で当たり前のようにして使っているコンピュータの原型なのです。「ジャガード織機は、紋紙と呼ばれる紙を使います。でも、時代の波で、コンピュータ制御の電子制御の電子ジャガード織機が登場しはじめた。じゃあ、ウチもと思ったんですけど、これを電子データ化するためのシステムが高価で、とても買える値段ではなかったんです」、そう語るのが織元山口の社長山口英夫氏です。災転じて福となす。これがきっかけとなって、写真織という技術が確立されることになるわけです。


一見、絵か写真が額に入れられたアートと思いきや…。

写真織の技術でつくられた作品

**フォトテックス、写真織という技術**

買えなければ自分でつくろう、そう考えたのが山口社長です。マッキントッシュでプログラムを自ら書き、回路も自ら組む。そして、どうせなら面白い機械がいい、と既存の電子ジャガード織機ではできなかったデジタル画像、つまり写真を織れる機械として仕上げてしまうのです。「簡単に言えば、ジャガード織機をプリンタ代わりの出力機にしようと発想したんですね。つまり"織機はプリンタ"というコンセプトです。これは、当時の織機ありきで、織機にあわせてプログラムをつくっていたのとはまったく逆の発想だったんですよ」（山口社長）。そして、この発明によって、写真の鮮明な色彩や原画のイメージを忠実に再現すること、そして量産せずとも、一枚からでも複雑な柄を織ることが可能になったわけです。しかし、その前に、どうして山口社長は、プログラムや回路なんかを組立てることができたのでしょうか？

**山口英夫氏の道**

実は、この山口社長、元々はコンピュータ業界にいた人物なのです。80年代初頭のコンピュータ黎明期でしたから、エンジニアとして某大手コンピュータメーカーに勤めていた彼は、ハードとソフトの両面からコンピュータに関わることができたのです。「あの時代は、面白いことを横断的に沢山させてもらえたので、多くのことを学びましたね」（山口社長）。しかし、どんどんと細分化していく仕事が面白くなくなってしまった彼は、会社を辞し、ファッションを学ぶためにとある専門学校に通いはじめます。「元々、僕は、ファッションが大好きで、堅い会社だったにも関わらず、DCブランドに身をくるんで会社に行っていたくらいなんです。だから、コンピュータとは全然違う世界でしたけど、そっちで勝負してみようと思った。でも、学校の方は、アルバイトが忙しくなって、ややおろそかになってしまったんです」（山口社長）。当時、山口社長は人のつてで、某有名コンピュータ雑誌の編集部に勤めることになります。時代は、奇しくもデスクトップパブリッシング（DTP）が騒がれはじめた頃でした。「私は、ここで、印刷の知識というものを学んだんですよ」（山口社長）。

とても複雑な形状をしている

これがコンピュータ制御される電子ジャガード織機


**偶然と意志が引寄せた革新**

コンピュータ、ファッション、そして印刷。一見、何の脈絡もなさそうな業界をわたり歩いていた山口社長。しかし、不思議なもので、これら3つの要素、3つの経験が見事に調和してひとつになるのが、家業であったのです。「実は、先代である父は、別に家業は継がなくてもいい、と言ってくれていたんです。でも、私なりによくよく考えてみたら、ファッションとかデザインとかに関わっていきたいなら、手っ取り早いのは実家を継ぐことだと思ったんですよ」（山口社長）。こうして、家業を継いだ山口社長がさまざまな試行錯誤の末に、遂に辿りついたのが写真織の技術「フォトテックス（PhotoTex）」だったわけです。これは、偶然が重なり、そこにさらに山口社長の意志がうまく重ね合わさったことで、はじめて生まれることが可能になった奇跡的な技術なわけですね。



**アーティストの誕生**

しかし、そこからの展開も、また面白い。苦労の末に、どんな写真でも自由自在に織り上げることができるようになった山口氏は、遊び心から次から次へと作品を製作するようになります。そして、その作品が知人の目に止まります。すると、知人は「これは素材ではなくてアートだね」とコメントをくれたそう。そして、その知人らの薦めで海外のアートコンペに出展。すると、そこからまた様々な誘いが来て、個展や海外美術館のコレクションに加えられるようにまでなっていくのです。「そうやって、私はいつの間にか、アーティストにもなっていた（笑）」（山口社長）。


山口英夫社長

襖にも写真織がほどこされている。見た事のない襖




**織物の魔力**

織物というものは不思議です。ここで織られた大小さまざまな織物を見ていると、写真を見るのとはまた違った感覚が沸き上がってくるからです。布として織られているというだけで、図柄に何とも言えない温もりがにじみ出ているのです。まさに、そこには魔力のようなものが働いているのです。家具、緞帳、タペストリー、カーテン、インテリアとしての画、特注家具、旗など、織元山口で織られた布は、あらゆるモノとなり、空間を包みます。そこに秘められた可能性というのは、本当に果てしのないものです。どんなものにだって活用できます。"織り機がプリンタ"。このコンセプト、発想にピンと来た人は、是非、同社に問い合わせて、相談してみて下さい。もしかしたら、予想もしなかった面白いアイディアが山口社長の口から返ってくるかもしれませんよ。山形という地域にありながら、立派に世界と対峙している同社、ふつうの人には馴染みのない世界ながら、何だか誇らしい気分にさえさせてくれる会社です。ちなみに、もし、この織の技術を体感してみたいという方は、オンラインショップで一般の人でも手軽に買えるもの、風呂敷やエコバッグも販売しているので、是非、[コチラ](http://www.yamakuchi.jp/)から試してみてください。

家具にもアートにも写真織の技術が！この技術の用途が幅広いのがわかるだろう

こちらが織元山口の工場




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		<link>http://risa-mag.com/2008/11/07/orimotoyamakuchi/</link>
			</item>
	<item>
		<title>知る人ぞ知る手づくりパター：山田パター工房</title>
		<description>**昔は、ゴルフと言えば、オジさんがやるもの、というお決まりのイメージがありました。しかし、近年は、ゴルフファッションも随分と洗練されて、若い女性たちも気軽にゴルフに参加するような時代になりました。[宮里藍](http://www.ai-miyazato54.com/)選手、[横峰さくら](http://www.yokominesakura.com/)選手、[上田桃子](http://www.momokoueda.com/)選手などの女性プロゴルファーたちの活躍も一役買っています。PingMagRISAでも紹介した沖縄の[aicafe54](http://risa-mag.com/2007/08/02/aicafe54-open/)などに入るだけでも、ゴルフのイメージは随分と変ったということがよくわかります。何よりも昨今は、プレー料金も以前よりもかなりリーズナブル。若い人でも気兼ねなくゴルフに行けるという時代です。さて、今回、ゴルフの話を持ち出したのは、インタビューに訪ねたのが、山形県でゴルフパターを手づくり製造する会社だからです。[山田パター工房](http://www.catvy.ne.jp/~putter/)は、一代でメーカーを築き上げてしまったという不思議な人物が経営する会社です。ここが製造する、手づくりパタークラブの品質の良さは、一体、どんな風に生み出されたものなのでしょうか。**

美しいフォルムを誇る山田パター工房製のパター



**パタークラブとは**

さて、この山田パターがつくっているもの、それはパターです。パターというクラブの存在自体をはじめて耳にする人もなかにはいるかもしれませんので、ここで簡単に説明しておきましょう。ゴルフでは、当然、クラブというものを道具として用います。そのクラブの種類には、アイアン、ウッド、ドライバー、そしてパターなどがあります。細分化していったら、それらを列挙しても、最初はとても覚えきれないはずです。それぞれのクラブが競技中に異なる場面で使われます。例えば、ドライバーは、各ホールで最初の一打を打つためのクラブです。最も飛距離が出るけど、曲がりやすいという難点も持っています。アイアンは、ゴルフクラブの中で、一番種類が多く、決まった距離を狙って打ち分けるためのクラブです。そして、パター。これは、クラブの中では、案外、一番、馴染みがあるものかもしれません。ゲームセンターなどにもパターゴルフのゲーム機はあるし、パターゴルフという簡単なゲームもあります。もしかしたら、ゴルフといったら、[パターゴルフ](http://ja.wikipedia.org/wiki/パターゴルフ)をしている姿を思い浮かべるのかもしれません。このクラブは、グリーンの上で、ホールカップに向かってボールを打つためのものです。






**パット・イズ・マネー**

パターというと、何だか、子供でもできるゴルフゲームというイメージが涌いてくるかもしれません。しかし、ゴルフ好きの間では、「パット・イズ・マネー」という言葉があるくらいです。これは、パット上手は、賞金を手に入れられるという意味です。こんな表現があるくらいですから、いかにパターというものが重要であるかがわかると思います。（ちなみにこれは和製英語で、本当は"Drive for show, putt for dough"と言い「ドライブは見せるため、パットはお金のため」という英語表現になります）。さて、では、パターを選ぶ際には、どうやって何を見分ければいいのでしょう？　

**パターの種類**

ひと口にパターと言っても、その種類はいくつもあるのですが、現在主に使われているのは、[ピンタイプとマレットタイプ](http://www.golfdigest.co.jp/golfmagazine/gear/fresh/005.asp)の2種類です。ピンタイプのパターとは、ヘッドの動きを操って細かなタッチを出すためのパター。マレットタイプのパターは、重心深度が深く、直進性に優れているので、距離と方向のブレが少なくなる。そんな特徴があるパターになります。パターは精密さが要求される分、クラブの種類も多岐にわたる。前述の形状（ピン、マレット、ブレード、クラシカルなL字ほか）、材料・素材（ステンレス製、スチール製、ブロンズ、軟鉄）、重心、グリップのサイズ、シャフト（柄）の長さなどの組み合わせ方によって、パターの種類は無限に広がっていくわけですね。

何の変哲もない鉄の塊から、美しいパターが生まれる。そのためには、蓄積された技術とノウハウが重要。山形には金属加工業者が多いが、彼らには真似ができないと言う

少しずつ削り出されていくなかで、機能するパターが生まれる






**パター専門メーカー**

今回、訪れた山田パター工房は、日本では珍しいパター専門のメーカーです。しかも、注文製作も受けており、自分だけのオリジナル・パターもつくってもらえる。でも、どうしてこのメーカーは、パターにこだわっているのでしょうか？その点を聞いてみると、山田社長は「僕は幾何学や数学などの精密なものが好きなんです。だから、僕の性格でクラブをつくるならパターが合っている。そう思ったんです」と答えてくれました。それに興味深いことに、山田社長の子供の頃からの夢は、「緑に関係があって、数字を使う仕事」だったそうです。ところで、山田パター工房とは一体どんなパターをつくるメーカーなのでしょうか。



**手づくりのパタークラブ**

山田パター工房のクラブをひとことで表現すれば、クオリティの高い手づくり品と言えると思います。だから、プロからも賞賛され、現在、大量生産の廉価品が数多く市場に出回る中、付加価値の高い商品として、一目を置かれる数少ない商品になっています。山田社長が約20年ほど前に、最初に目をつけたのは、「[TPミルズ](http://putters.exblog.jp/6096599/)」というブランドのパタークラブ。このパターは、ゴルフ好きの人では知る人ぞ知る名品です。山田社長が最初にこの商品を手にしたとき、「自分でもこんな風な美しい製品をつくってみたい」という想いと同時に、「これなら、あれをこうしてああすれば、私にもつくれる」とその製造方法がひらめいてしまうという体験をしたそうです。その後、自分で製作にのぞみ、さまざまなモデルを発表、そして現在に至るというわけですね。「今も、パターの仕上げは僕が一本一本、手作業で行っているんですよ」、そう語る山田社長。実は、設計のプログラミングもデザインもすべてひとりで行っているというから驚きです。

バナーで熱加工を行っているのは、山田社長。微妙な塩梅は、彼にかできないのだそう

指揮をとる山田社長の命に従い、作業を行うスタッフ




**山田パター工房という会社**

山田パター工房の山田社長は、本当に驚きの人物です。ひとことで言えば、マルチな才能を備えた人。彼は、元々は、プロのジャズ・ギタリストとしてアメリカで10年ほど活躍していたキャリアを持っています。30歳を過ぎてからはじめたゴルフも、そのセンスの良さからすぐにプロの資格まで取得してしまったといいます。「でも、さすがに30歳を過ぎてからプロ選手として活躍するのは、難しいんです。それで、アメリカには10年もいたから、そろそろ日本に帰ろうと思ったんですね」。折しも[レーガノミックス](http://ja.wikipedia.org/wiki/レーガノミックス)という米政府との政策ともあいまって、そんな気持ちになった。そのときに自然と「では、日本に帰ってから何をしよう？」と考えるようになった。でも、山田社長には大きな迷いはありませんでした。「好きなゴルフとパターゴルフづくりをすれば、いいんだ」、最終的にそう思い至るわけです。しかし、その発想が、実に面白い。なかなか一般的な感覚では、未知の分野で行動を起そうとは思わないものです。しかも、山田社長の場合は、ひらめいたら即行動に移す。「僕は、何をやるべきかがわかったら、とりあえず行動に移します。やるかどうかを構っている人じゃないんです。やりたいこと、やらなきゃいけないこと、やれる状況があれば、ただそれをやればいいだけなんです。何もしないでただじっとしている方のが、よっぽど怖いですね」（山田社長）

最初は、自宅でひとり作業していたが、現在では機材も機械なども増えた

**一代でブランドを築く**

それにしても、一代でゴルフ好きの知る人ぞ知るパタークラブの一ブランドにまでなってしまうという起業の話は珍しい。こうした話は、そうそう聞けるものではありません。そんな彼のいる目の前で実物を見せてもらうと、その製品に宿る美しさや精密さに溜息すら漏れてきます。きっと、ここに傾けられた情熱というのははかりしれないものだったのでしょう。「プロや上級者の御用達」という触れ込みで紹介されることの多い山田パター工房ですが、もちろん初心者、初中級者が使ってもいい。最初に、安物に慣れてしまうよりは、しっかりとした、高いクオリティのプロダクトに馴染んでおく方が、上手くなったときに差がでるのはご想像の通りです。加えて、必然的に製品を長く使えるわけですから、長い目で見ればリーズナブルでもあります。何よりも、山田社長の真摯な姿勢から生まれた製品ですから、そこにはつくり手の魂が宿されていて、ゴルフ上級者はもちろん、初心者やこれからゴルフをはじめようという方にもお薦めできる商品です。もし興味がある方は、近くのゴルフショップで店員さんに尋ねてみてください。「山田パターはありませんか？」と。手に取って、その他のパタークラブと比べてみると、ずっしりとした重みや材質の光沢などを、間近に感じるだけで、きっと欲しくなってしまうはずですから。


**山田パターの本道**

最後におまけでありながら、山田パターの本道を紹介したいと思います。山田パター工房は、手づくりパターを製造していても、実は同社がテーマに掲げるのは、もっと大きなところにあります。それは、「世界一入るパッティングシステムの構築」というもの。そのために同社が開発しているものは、生身の人間と同じようにミスを犯すパッティングロボット、デジタルパター開発（特許取得）、パッティングストローク矯正機（特許、実用新案意匠登録申請済み）の製造・販売などです。これらは、前述の大テーマを達成するための山田社長のアイディアが結実したものです。そして、新しいアイディアとインスピレーションは、今も山田社長の頭の中に、次から次へと巡っています。こうなってくると、パタークラブという商品ももちろんですが、ユニークな山田社長が率いる同社の動向も見逃せません。是非、同社の今後の動きに注目していきたいものですね。

山田社長の強力な発明品、パッティングストローク矯正機


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		<link>http://risa-mag.com/2008/10/31/yamadapatter/</link>
			</item>
	<item>
		<title>触れて感じて考える、将棋駒のお話：天童佐藤敬将棋店</title>
		<description>**今回、紹介するのは、将棋の駒です。美しい書体や、ユニークな五角形のフォルムを誇る将棋の駒には、どんな世界が潜んでいるのか、少し覗いてみてみましょう。今回訪ねたのは、[天童佐藤敬商店](http://www.shogi-koma.jp/)。将棋駒のことを知ると、旧友などを連れ立って、温泉地などで指したりなどしたくなるはずです。想像してみてください、例えば、自分が、[玉井別館](http://www.tamaikan.com/)なんかで対局している姿を……。**

 


**ボードゲームの王様**

　世界に、ボードゲームと呼ばれるものは数あれど、日本人にとって馴染み深いものは、何と言っても将棋なのではないでしょうか。その将棋というゲームは、盤と駒というシンプルな道具で構成されています。まず、独特の細長い五角形の形が印象的です。次に、木肌の感触や木目などが見ても触っても気持ちいい。そして、一番目を奪う要素が、その書体ですね。「王」「金」「銀」「飛」「角」「歩」など、その威風堂々としたたたずまいは、誰の記憶にも残るものです。子供にとっては、大人の世界の匂いを感じるかもしれませんし、女性であれば、男性的で政治的な空気をそこに嗅ぎ取るかもしれません。当たり前の存在になるとそんなことすら、感じなくなってしまうかもしれませんが、今一度、手に取ってみれば、その不思議な存在感に気圧されることは間違いなしです。





彫り師の名は、駒の底に彫られる。職人の誇りがうかがえる



**天童の将棋駒の歴史**


　山形県[天童市](http://www.city.tendo.yamagata.jp/)は、将棋駒の9割を生産している土地です。以前、天童市の家具メーカー、天童木工を紹介しましたが、この地で木製家具より。もっと有名なのは、将棋の駒なのです。ただ、どちらも木から形づくられるという点は共通していますね。この土地で、将棋の駒がつくりはじめられたのは、江戸時代末、1831年、天保2年、[織田藩](http://www.jvnet.or.jp/~badz9005/tendo/oda.htm)の移管のときに持ち込んだという説。はじまりは1865年あたりのことだと推定される説、そして実は18世紀からあったとする説、など諸説あるようです。いづれにせよ、豊かな雑木林を有する山々に囲まれる土地ですから、その材料に事欠くことはなかったわけです。ただ、面白いのは、大昔は、番台将棋の庶民ン向け商品ばかりをつくっていたということ。時代変れば、つくるものも変る。元々は、独特の草書体で漆書きされたものが主なる製品だったのに、明治時代中期からは東京から楷書体の駒が伝わり、大正時代からは彫り駒の製造方法まで取り入れるようになったそう。そして、今では、多くの将棋指しが、印字の駒や機械彫りの駒を使うようになった時代背景から、書き駒職人が減ってしまい、天童書体は希少価値の高いものへ、高級な、憧れの駒となっているわけですね。








将棋の駒は、一枚一枚、木材の形を整えてつくり上げられていく


**将棋駒入門**

　さて、ひと口に将棋の駒と言ってみても、意外なことに様々ありますので、ここでその種類を入門的に紹介いたしましょう。まず、近年、もっとも普及している駒、これは「押し駒」と呼ばれるものです。「押し駒」は、駒木地にゴムの印を押したもので、スタンプ駒とも言われます。これは、言わば、将棋駒のリーズナブルな廉価品です。次に行き渡っているのが、「書き駒
」です。これは直接、駒木地の上に漆で、「楷書」か「草書」で書かれます。そして、「彫り駒」です。これは、駒木地に字体を彫り刻んだものです。そして、さらにこの駒を進化させたものが、「彫り埋め駒」。これは、彫り駒にいく度も漆を塗り込み、研ぎ出した後で、平滑に仕上げた駒です。そして、最高級品としての最終形態が「盛り上げ駒」です。これは、技術的に難易度の高い、特殊な技術を用いて、彫り埋め駒の文字を浮き出させ、そして、その名の通りに盛り上げられた駒です。

左から「書き駒」「彫り駒」「彫り埋め駒」「盛り上げ駒」


**ものづくり文化の粋**


　上記で紹介したような、いろいろな技法を用いて、ツゲやホオノキ、カエデなど、将棋駒の原材料である木の上に字が彫られ、そして書かれていくわけです。将棋駒の製造を知ると、非常に面白いと感じるのは、そこに、ものづくり文化の粋が集められている点です。例えば、分業体制。駒木地をつくるのにも「木地師」、「書き師」、そして「彫り師」がいます。木地師は、五角形の駒木地をつくり出し、そこに書き師が漆で文字を正確に、しかし「かすれ」などの味が出るように書いていく。そして、彫り師は、[印刀](http://www.osakakyouzai.com/tenkoku2.htm)とよばれる道具で、これを彫っていく。そうして最後に彫った所に漆を入れるといった手順となるわけですね。





木地の木目合わせて組み合わせ中の佐藤さんの奥様。


**天童佐藤敬商店**

　今回、取材に訪ねた天童佐藤敬商店のオーナーの佐藤稔さんは語ります。「将棋の駒づくりというのは、本当にいろいろな面白い職人さんが関わって、ようやくできるものなんです。でも、将棋駒をつくるのは、本当に面白い。今や、将棋をやる競技者人口は随分と減ってきてしまっていますが、私は、私の代だけでも、この将棋駒づくりをやり遂げたいと思っているんです」。同店店内には、さまざまな将棋具が取り揃えられています。しかも、それぞれの道具に、物語がある。佐藤さんの口から話されるから、ついつい買いたくなってしまう。ネット販売にも力を注ぐ同店ですが、店主に会って買いたいと、わざわざ足を運ぶお客さんも少なくないそうです。



**職人たちのこだわり**

　佐藤さんに、将棋の駒にまつわるさまざまなエピソードを聞くと、職人さんの情熱を感じることができます。例えば、元々は、佐藤さんの先代である父の弟子として雇われていた秀峰さんという駒師さんなどは、ある時、納得のいく字が書き上がらずに半年以上も自宅に籠り、満足いくまで、他の仕事を受けなかったと言います。また、駒箱をつくる職人さんは、駒箱の上下が重ね合わせられたときに蓋の重みで自然に中の空気を押し出して閉まる、ということに心血を注ぎ、遂にそれを現実のものにしたという、そんな具合なのです。








**将棋駒の魅力とは？**

　ちなみに、[NHK杯](http://www.nhk.or.jp/goshogi/shogitou/index.html)の将棋駒をつくっているのは、同店。それだけ、高い品質の駒をつくっているお店だというわけですね。同店店主の佐藤さんに、魅力的な将棋の駒とは、どんなものかを聞いてみると、かなり奥が深そうです。「駒木地の木目や木肌、そして色・つや、それから一枚一枚の駒を手に持ったときの重さがとても大切ですね」。なるほど、確かに、五感に訴えかける将棋駒というのは、指していてとても心地のいいものなのかもしれませんね。


**将棋コレクターたちの目**

　それは、将棋駒のコレクターらの将棋の駒に注ぐ視線をのぞいてみると、一層、鮮明に感じられるものです。例を挙げるなら、「初任給で自分の手に合った将棋駒の指し心地たるや」、「飴色の冴える駒」、「釣針のような独特のアールで表現された書体」、「堂々たる大振りの駒」、「対局には不向きだが、鑑賞すれば心はずむ躍動するような書体」等々、将棋駒の見所を教えてくれます。




ひと口に将棋駒といっても、書体から製作技法まで、さまざま。奥深さに見入ってしまいます。


**将棋で頭脳を活性化**

　将棋の源流は、紀元前300年頃、古代インドのガンジス川上流で遊ばれた、[チャトランガ](http://www.kansai-shogi.com/museum/chaturanga.html)。アラブ、ペルシャ、ヨーロッパ、中国、朝鮮、そして日本へ。それぞれ独自の文化が色濃く反映される各国の将棋の中でも、日本の将棋が、とても魅力的なものであることは間違いありません。今、巷では、「sudoku」やら「頭を良くするゲーム」などが流行っているようですが、将棋ほど、脳を刺激してくれるものは、めったにないはずです。ここらで、将棋駒を手にとって、モノとしても鑑賞しながら、ゲームに興ずれば仕事にも良い影響を及ぼすかもしれませんよ。


佐藤敬商店の店内。店主と談話しながら、商品が選べるので、訪ねると面白い。ひとつひとつの商品に物語があって、そのエピソードを聞くだけでも、十分に価値がありそうです。



取材／鈴木隆文




 </description>
		<link>http://risa-mag.com/2008/10/24/shougi/</link>
			</item>
	<item>
		<title>これぞLOHAS？ 自然を感じる漬物ライフ：さとみの漬物講座</title>
		<description>**山形県は漬物王国と言われています。漬物の産地と言えば、「西の京都、東の山形」と言われるほど、山形県は漬物のメッカです。さまざまな農作物が穫れる田畑が広がる、この雄大な大地を眺めてみれば、それは非常に合点がいくことです。この地で、とびきり美味しい漬物をつけるのは、漬物ビジネスで[第6回女性起業家大賞](http://www.jcci.or.jp/joseikai/2007kigyoka/award.htm)特別賞も受賞し、「[さとみの漬物講座](http://tsukemono.info/)」を運営する、新関さとみさんです。元々、彼女が生まれたのは横浜、そして昔は商社に勤めていた、いわば元都会派の人物。にもかかわらず、彼女が華麗なる転身を遂げたのは、一体、どうしてなのでしょう？　PingMagRISAでは、今や「漬物一筋」の人生を歩まれている彼女の元気でユニークな生き様を、インタビュー形式でお届けします。**





**はじめまして。美味しい漬物を漬ける人がいるというお噂を聞いて、お邪魔させていただいております。**

ありがとうございます。こちらは、菊の花を漬けたものです。一番美味しいと言われる品種「もってのほか」を漬けているんです。食べてみてください。美味しいでしょっ。

**はい。本当に美味しいですね。それで、どうして、こんなに美味しい漬物が漬けられるようになったのでしょう？ さとみさんが漬物の世界に入ったのは、何かきっかけがあったのでしょうか？**

すべては、この土地に31歳で造り醤油屋（[山二醤油醸造](http://www.chuokai-yamagata.or.jp/s-miso/member/24/index.html)）に嫁いできたことがはじまりなんです。はじめて、義理の母の漬物を食べたとき、「何て幸せな場所に嫁いできたんだろう！」って、そう思うくらい、美味しい漬物だと感じたんです。その味のセンスの良さに、「同じ漬物でもこんなに違うものか」ってビックリしたんですね。










**その味の感動がとても大きかったわけですね。**

はい。でも、自分で漬物をつけるなんていうつもりは、全然なかったんです。「自分なんかに、漬物がつけられるわけはない」、そう思っていました。漬物って、ちょっと敷居が高い感じがするんですよ。

**では、どうやって、漬物の世界に足を踏み入れたのでしょうか？**

実は、それがひょんなことなんです。山形には青菜を漬ける風習があります。その漬ける量は、翌年の4月まで食べる分なので、量が多いんですね。それで、ある年に漬けていた青菜が、凄く綺麗に漬け上がった。普通は、外の葉2、3枚は捨てなければならない。その後の残りの分しか商品にならないのに、この年は、捨てる分がほとんどなくて、全部が商品となってしまった。それで、大量の青菜の漬物ができあがってしまったのです。本当は、捨ててしまおうと思っていたんです。










**近所の知人に配るなどは、駄目なのでしょうか？**

それが、まわりの人たちも、みんな、自分たちで漬けているんですよ。その量を腐らせてしまったら、大変なことになりますからね。でも、「母の美味しい漬物を捨ててしまうなんて、もったいない！」、そんな想いが私にはありました。そんなときに、割と近くに、農産物直売所ができたというニュースが飛び込んできたんですね。で、私、言ったんです。「あそこに頼んで置いてもらったらいいんじゃない？」って。

**そうしたら、どうなりましたか？**

それが、母と主人は「絶対、売れるわけがないっ」って言い張って、「頼みには行きたくない」って言うわけです。母によれば、山形の人間であれば、漬物は誰でも漬けられるものだから、そんなもんを買わないということなんです。それでも、「もったいないなぁ」って言うと、「じゃあ、お前が頼みに行ってこい」ということになったわけです。








**なるほど。**

それで、雪降る中、赤ちゃんをおんぶして出かけていった。最初は、味見を持っていかなかったので、怒られもしました（笑）。でも、出直して味見を持っていったら、「これくらいだったら、出してやってもいい」って、産直所の人に言われたんです。


**何だか、昭和の光景ですね。それで、実際、売れたのでしょうか？**

それが、もう大変だったんです。山のようにあった青菜の漬物が売れて売れて、アッと言う間になくなっちゃったんです。売り上げた小銭が入ってくる感覚って、主婦には楽しいんです。「ヤッター!!」って。それで青菜がなくなってしまったとき、「これは素晴らしい山形の文化だな」と思って、はじめてお母さんに、「お母さんの美味しい漬物の仕方、私にも教えて」って頼んだんですよ。私も自分の子供に「ママの漬物美味しい！」って言ってもらいたかったということもあって（笑）。




漬物づくりに日夜精を出す、新関さとみさん。第6回女性起業家大賞特別賞も受賞しています。


さとみさんが敬愛してやまない義理の母。


**嫁と姑だと、なかなかそういう関係は難しいと思うのに、素敵ですね。**

でも、実際には、実の母にの言うことよりも義理の母の言うことの方が、遠慮ということもあって、素直に耳を傾けられるんです。私が、「この間、漬けた白菜漬けは、上手く漬けられたのに、同じように漬けた今回のはどうしてうまくいかないのかなぁ？」って聞くと、「お前が漬けた後、私が、通りかかったら、重しが傾いていたっけ。漬物は漬けた後にも、安心してちゃ駄目なんだ」って言ってくれるんですね。「なるほどな」っていうことを言ってくれるんです。

**打てば響く知恵を持っているということでしょうか？**

そうなんです。不思議に思ったことを口にすると、答えがすぐに返ってくる。一緒に生活している嫁と姑だから、できうることで、それがいいコミュニケーションにもなるんですね。今は、核家族を好む人が多いですが、同居してみると、それはそれでいい。遠慮があって、お互いに我慢がある分、いい関係を築こうとできる。そして、人間として成長するためには、そういう関係があった方がいいのかなって感じるんです。


敷地内には、醤油工場の煙突がそびえる母屋の中、古い山形の家ならではのつくり 

**でも、横浜の暮らしと比べると、ギャップも大きかったのでしょうね。**

最初、ここに来たときには、「うわぁー、田舎！」って思って嫌だったんですけど、しばらくすると、自然の移り変わりを肌で感じることができて、新鮮に感じられるようになったんです。山の色が秋になると変って、稲が段々と青から黄色になっていき、穂を垂れていく様とか、自然を感じながら生きる様子を見るのって、素敵だなぁって思うんです。


**漬物をやっていると一層感じることなのでしょうね。**

そうなんですよね。「キャベツとキュウリの浅漬けかぁ。ああ、間もなく春祭りだねー」とか「秋も深まってきたから、大根が美味しくなってきたね。もうすぐ冬だね」とか、山形の田舎に暮らす人たちは、漬物を通して、季節の移り変わりを感じているんですね。



ここが、さとみさんの仕事場



**なるほど。でも、その漬物がビジネスにまで発展したのは、どうしてなんですか？**

それは、産直所で売っていると、みんな、「これ、どうやって漬けるんですか？」って、聞いてくるんです。でも、私は、義理の母から「誰でも漬けられる」って聞かされていましたから、何故聞かれるのかが不思議だった。で、あるとき、ケーブルのテレビ山形の制作者と話した機会に、「漬物の漬け方知らない人って沢山いるんです。そういう番組があったら、楽しいんでしょうね」って、何とはなしにしたんです。そうしたら、「じゃあ、その番組つくりましょう!！」って言うことになったんですね。それが、今の会社名の「さとみの漬物講座」なんです。

**面白いものですね。**

最初は、母に出てもらうか、手だけの出演ということで、お願いしたんですけど、結局、私が出るハメになったんですね。それで、母に協力してもらって、漬物の漬け方のポイントをデータに取っていって、わかりやすくレシピをつくっていったんです。



『さとみの漬物講座』の冊子、お値段は500円と手頃!!
旦那様の家業とのコラボレーションで生まれた漬物用のたれと醤油 



**漬物のデータ、をですか？**

はい。「お母さん、これ、白菜に対して、塩、どれくらい漬けるんですか？」って言うと、「やんばいくらいだな（大体だな）」って言うんです。要するに塩梅（あんばい）しか言わない。だから、お母さんが持った白菜の手を、塩を盛った手を、止めて、それを秤に置いて、数字を取っていったんです（笑）。この白菜の量に、塩はこれくらいの分量っていう具合です。漬物の場合、専門の本を読んでも、結構、不満が残るんです。「初雪くらいの塩をかけて」とか「梅雨が上がったら、砂糖をまぶして、塩漬けにする」とか、初心者にはよくわからない説明が多い。初雪といったって、山形市内の初雪と、月山の初雪は違う。梅雨の日数だって、その年によって違う。だから、そういう不満をクリアにしていったわけですね。

**わかりやすさを心掛けたというわけですね。**

はい。そこは自分自身がわからなかったことなので、大事に考えてみたんです。そして、番組をしている3年間、年間24種類の漬物、合計約70種類の漬物のつくり方を紹介したんです。そうしたら、今度は、東北各地のイベントで、漬物の先生としてお呼びがかかるようになっていったんですよね。それで、そういうことをやるんだったら、個人よりは会社にした方がいいということになったわけです。第6回(2007年)の女性起業家大賞の特別賞は、そうしているうちに受賞することになったものです。






さとみさんの嫁ぎ先は、醤油屋さんの山二醤油醸造


**素晴らしいですね。それでは、今後は、この漬物の仕事を広げていこうとお考えなのでしょうか？**


これは、元々、手づくりの漬物なので、大量生産はできないんです。ウチでは、実際に漬けた漬物を販売もしているのですけど、山形で漬けた漬物を東京に持っていって売ることはできません。1日か2日経つと、鮮度が落ちますからね。普通、製造業者はレシピなんか公開しないんですけど、私は、もう全部、オープンにして、自分でつくって下さいね、というやり方をしているんです。それで、わからなかったら、私を呼んでくださいねって。だから、そんなに肩肘を張っては全然やっていない。でも、もう東北一円はまわったので、関東地方や東京なんかでも「さとみの漬物講座」が開催できて、多くの人に、漬物の良さを知ってもらえたらなぁとは思っています。私のホームページには、誰でも簡単にできる漬物の漬け方が出ています。これをお読みの読者の方にも、是非、挑戦してもらえたら嬉しいです。





雄大な山形の景色は、四季折々を通じて、さまざまなことに気付かせてくれる

取材／鈴木隆文

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		<link>http://risa-mag.com/2008/10/17/satomi/</link>
			</item>
	<item>
		<title>デザイナーと共に歩む天童木工の今</title>
		<description>**[山形県天童市](http://www.city.tendo.yamagata.jp/)には、知る人ぞ知る有名な家具メーカーがあります。その会社名は[天童木工](http://www.tendo-mokko.co.jp/index.php)。1940年にその歴史の幕を開けたこの同社は、1950年代、60年代、70年代には、世界のデザイン史に名を残すような、素晴らしい家具を生み出してきたのです。その天童木工が、最近、またにわかに活気づいているようです。**



これぞ曲線が織り成す芸術です


**有名デザイナーたちとの名作家具**

「天童木工」という名は、多くの人が耳にしたことがあるはずです。特に、家具好きの人であれば、知らない者はいないと言ってもいいほど、よく知られる家具メーカーです。何故知られているかと言えば、このメーカーから多くの名作チェアが生まれているから。例えば、最も有名な[柳宗理](http://www.japon.net/yanagi/)の[「バタフライスツール」](http://www.tendo-mokko.co.jp/products/detail.php?mid=896&gc=3&cid=&sid=)、[田辺麗子](http://www.enjoy-l.com/D/sub/tanabe.html)の[「ムライスツール」](http://www.tendo-mokko.co.jp/products/detail.php?mid=906&gc=3&cid=&sid=)、ヤマナカグループの[「マッシュルームスツール」](http://www.tendo-ply.jp/?mode=grp&gid=537)などが、このメーカーのラインナップ。ほんの一例ですが目にしたことがある人も多いのではないでしょうか。他にも[剣持勇](http://ja.wikipedia.org/wiki/剣持勇)、[長大作](http://www.idee-online.com/html/newpage.html?code=36)、[ブルーノ・マットソン](http://www.bruno-mathsson-int.com/)ら、デザイン、建築界における多くの巨匠が、自らのイメージを具現化するために、遠路はるばる山形県天童市にあるこの木工メーカーを訪れています。それにしても、柳宗理のバタフライスツールが発表されたのが1956年。今から、50年以上も前という事実には恐れ入るばかり。デザイナーとのコラボレーションという発想を受け入れるメーカー自体が、多くはなかった時代です。

天童木工の名作家具。上段がヤマナカグループの「マッシュルームスツール」、下段が柳宗理の「バタフライスツール」。天童木工の技術力なくしては決して生まれなかった商品だ

**天童木工の魅力って？**

しかし、これだけ多くのデザイナーが、天童木工に魅せられたという事実は、理由なくして起こるものではないでしょう。一体、天童木工とは、どんな点が優れた家具メーカーなのでしょうか？　同メーカーの家具に目をやれば、気になるその特徴が浮かび上がってきます。そう、それは家具の持つ曲線の美しさです。天童木工の製品は、木材で製作されていながらも、ねじれやよじれが見事なまでに表現されたフォルムを誇っているのです。そして、この技術こそが成形合板と呼ばれる技術になるわけです。

広大な工場の中では、多くの職人さんたちが働いている。天童木工のスタッフの数は、およそ350名。


**成形合板の技術とは**

成形合板とは、薄く切り出した木の板を接着して、何重にも重ねて貼り合わせて、型に入れて圧力をかけプレスし、マイクロウェーブなどで加熱成形する技術のこと。そうすることで、無垢材では表現不可能だった自由度の高いデザインを実現することができるわけです。ただし、どんな形にでもできるかというと、そうではありません。自由自在のプラスティック材料とは違って、ここには知恵が必要になってくるのです。デザイナーの高い要求に応えるために必要なのは、職人の技と工夫。彼らは、この世に存在しなかった形を生み出すために、知恵を絞り試行錯誤を重ね、その成果としての名作家具を手にしてきたのです。天童木工は、柔軟な体制と技術的問題解決というものを武器に家具の歴史をつくってきたのです。デザイナーをはじめ多くの人がここに引寄せられるのは、そんな裏付けがあってこそなのですね。

さまざまな成形合板技術は彼らの努力の結晶


**フェラーリのデザイナーと家具**

天童木工によるデザイナーとのコラボレーションは、今は昔の物語では終りません。実は、天童木工は、今も多くの夢ある製品をつくり続けています。そんな天童木工の近年の代表的な作品が、カーデザインの分野で世界的に大活躍をしてきた人物、奥山清行氏とのコラボレーションです。彼は、[GM](http://www.gmjapan.co.jp/)や[ポルシェ](http://www.porsche.com/japan/)、イタリアの[ピニンファリーナ](http://ja.wikipedia.org/wiki/ピニンファリーナ)という名門カーデザイン工房に在籍し、フェラーリのデザインを手掛けたことで知られます。また彼は、「イタリア人以外で初めてフェラーリをデザインした男」という称号も得た人物で、世界中からも注目を集めているのです。異なる分野、しかもその技術力では折り紙付きの天童木工とコラボレーションすることで、一体どんなデザインを見せてくれるのかは、本当に興味が尽きません。まさに最高峰のデザインと最高峰の技術のコラボレーションではないでしょうか。

**難易度の高いプロジェクト**

どんな高度な技術を要求されても、その都度、「あきらめない精神」で応じてきた百戦錬磨の天童木工です。しかし、今回ばかりは少々、骨を折った模様です。お話を聞いた同社・企画課の斎藤慎也さんは語ります。「実際、このプロジェクトは、難易度が非常に高いもので、めったなことではあきらめないウチの職人たちも、根を上げそうになったくらいで、到底、完成までこぎつけないと思っていたくらいなんです。それでも悪戦苦闘の末に、実際、"ORIZURU"が出来上がってみると、やはりそのデザインの美しさは見事だなぁと、感じ入りましたね」（企画課・斎藤さん）。

この美しい色はまさにスポーツカー!! そして、見どころは、椅子の名称「ORIZURU」に相応しいそのフォルム!!


**ORIZURU**

確かに、ミニマルなラインを描きながら、所々でその曲線が折れている。これは、かなりの高度な成形合板技術が要求されるのは、誰の目にも一目瞭然でしょう。ところが、その座り心地となるとどうでしょう。一見、硬そうで何だか落ち着かないイメージがあります。しかしです、これが実際に座ってみると、弾力性があって、なかなかの座り心地なのです。勉強や仕事をするときなどには、適度な緊張感を保ててピッタリです。それに、何よりも、その男の子たちの心をくすぐるデザインは、多くのスーパーカーを輩出したイタリア車を彷彿とさせてくれるところが嬉しいですね。そして赤い「ORIZURU」の方になると、その風情はフェラーリそのもの、こんな高貴なオーラをまとった椅子に毎日座れたら、一体どんな気分になるのでしょう。

左はALBERO、右はORIZURU

**奥山清行というデザイナー**

奥山×天童木工の家具は、この椅子だけにとどまりません。もう一点、「なかなかのヒット商品になった」と企画課の斎藤さんが語るコートハンガーの「ALBERO」があります。このハンガーのコンセプトは、空間全体の中においてアクセントになるものであること。見た目は森の木々の詩情を備えていながらも、高い機能性も持っている。そんなプロダクトが、コートハンガー「ALBERO」なのです。「ALBERO」とは、イタリア語で「樹木」を意味します。そして、このデザインを手掛ける奥山氏は、ほとんど一切の妥協を見せずに開発当初に描いたスケッチは最終のフォルムを見せるまで、そのラインをほとんどブレさせないのだといいます。これは、それだけ奥山氏が自分自身でデザイン検証をしている証拠なのではないでしょうか。きっと、相当なこだわりと美意識、そしてデザイナーとしての責任感の中で描いたスケッチだったのではないでしょうか。斉藤さん曰く、「奥山さんは、デザインへのこだわりは人一倍強いのですが、気さくで、とても礼儀正しい人で、仕事はやりやすかったです」と語ります。どうやら、写真のダンディーでクールなイメージとは、少し離れた、親しみの持てる人のようですね。とはいえ、ここまでデザイナーのこだわりに付き合ってくれる家具メーカーもそうはないはずです。


上段はアレックス・マクドナルド氏のデザインした「AVOCET」と「HOLLIE」、左下は辻村久信氏のデザインした「KAN」、右下は長大作氏が坂倉準三研究所在籍時にデザインした「低座椅子イス」。



**技術とデザインへの理解**

技術もあり、デザインへの理解もある。50年代、60年代、そして21世紀と、デザイナーとのコラボレーションを繰り返してきた家具メーカーが、今も多くの人に愛され、リスペクトされ続けているのは、そのふたつ、技術と理解があってこそ。日本家具の金字塔を打ち立てた家具メーカー・天童木工は、今も変らぬ姿勢を貫きながらも、未来へと突き進んでいく様子です。2006年から2008年にかけては、イギリス人デザイナーで成形合板狂としてキャリアを重ねてきたアレックス・マクドナルド氏、辻村久信氏、そして特筆に値する大御所デザイナーの長大作氏との共作椅子を発表しています。栄光ある歴史をたどってきたメーカーは、ややもすると保守的になりがちなものですが、天童木工はアクティブな姿勢を打ち出してくれている点が何とも嬉しいところです。加えて、企画課・斉藤さんは次のようにも語ってくれました。「奥山さんとのコラボレーションは、まだ続けていますし、デザイナーさんとのコラボレーションは当社の職人にとっても良い刺激になるので探りながら挑戦していきたいとは思っているんです」。未来の日本の家具文化を目撃したいなら、まだまだ、この老舗家具メーカーの動きからは目が離せそうにありません。お家にひとつとお考えの皆様、天童木工の家具はいろいろなところで直に目にできると思いますので、是非、手で触れてみて下さいね。


天童木工本社と企画課・斎藤さん

 </description>
		<link>http://risa-mag.com/2008/10/10/tendo/</link>
			</item>
	<item>
		<title>地域の心を宿す土人形：堤人形と古賀人形</title>
		<description>**土人形という不思議な世界があります。土人形は郷土人形。つまり、日本各地、それぞれの地域にあるもの。土地土地の微妙な匂いの違いを感じるには、とても興味深い工芸品なのです。ネットのオークションサイトなどを検索してみると、非常に高価なものから、安価なものまでズラリ並んでいます。癒しを求める現代に、大人の嗜みとして、土人形に興味を持つ人がまた徐々に増えているようです。ちょっと高尚でどこか懐かしく、そして可愛らしい。今回は、この土人形の世界に迫ってみます。訪れたのは、仙台で「堤人形」をつくる芳賀邸、そして長崎で「古賀人形」をつくる小川邸です。**




さまざまな表情をのぞかせる土人形。既製品や大量生産品にはない手づくりならではの温もりがあふれている。是非、一家に一体！

**密かに人気を集める土人形**

土人形って、ご存知ですか？　祖父母の家で見かけたことがあるという人はいても、この人形で遊んだ記憶を持つ人は現代っ子にはあまりいないでしょう。ところが、この土人形は、昔から日本にある人形であるだけでなく、今もこの土人形に取り憑かれてしまっているような人たちが数多くいるのです。部屋中いっぱいに土人形を並べている人、土人形好きが高じて博物館を開いてしまった人、武士は食わねど土人形ということで、家計は貧しくとも土人形集めを行っている人など、それはそれはさまざまです。その代表として挙げられるのは、「日本郷土人形研究会」。郷土人形を後世に伝えようと、図譜を自費で発行するほどの熱の入れようです。きっと、素焼きに簡単な彩色がほどこされただけの土人形に、何とも言えないノスタルジーを感じているのでしょう。



汚れていたり、欠けてしまっていたりするところが、土人形の土人形たる由縁

**日本全国津々浦々**

土人形は、日本各地に分布しています。かいつまんで紹介すれば、北は青森県の[「下川原焼土人形」](http://www.hatobue.com/)、東京は「今戸土人形」、大阪は[「住吉土人形」](http://www.chugoku-np.co.jp/Graph/angle/040106/11.html)、そして南は佐賀県の[「のごみ土人形」](http://www.sagasubanta.com/sagayoyo/yokamon/nogomi/)という具合です。つくり手がいなくなってしまったために、もう既に産地としては、機能していない場所も多くあるようですが、北から南まで、日本全国まばらに広く頒布しています。調べてみると、案外、自分の近所の地名を冠した土人形があるかもしれません。

**日本三大土人形**

元々、土人形は貴族や武士などの上流階級の間で節句用や観賞用としてつくられていたものでした。それが江戸時代も後期に入ると、生活に余裕が出てきた庶民の間でもつくられるようになったそうです。そこには、彼らの希望に対しての様々な想いが込められていたのでしょう。さて、そんな土人形にも、日本三大土人形という、選ばれし土人形があります。仙台の「堤人形」、京都の[「伏見人形」](http://www.tanka.co.jp/base.htm)、そして長崎の「古賀人形」がそうです。今回の取材で、筆者は、上の三つの産地のうち「堤人形」と「古賀人形」の製作所を訪れました。人々にノスタルジーを与える仕事が、いかなる人間の手によってつくり出されているか。「土人形」というキーワードを元につくり手の横顔をのぞけば、何か職人の秘密のようなものが見えてくるかもしれない。そんな興味がわいたからです。


仙台の「堤人形」製作所（上）、長崎の「古賀人形」工房（下）。どちらも緑に囲まれる素敵な工房だ。


**異なるスタンスとアプローチ**

実際、お会いしたのは、[「堤人形製作所」](http://www.ntv.co.jp/burari/991113/info7.html)の芳賀強さんと、[「古賀人形」](http://www.at-nagasaki.jp/nagazine/hakken0408/index.html)の小川憲一さんのおふたりです。それぞれ別々に、彼らの工房でお会いしたのですが、どちらも、大らかで気さくないい方々でした。それでも、面白い違いもありました。それは、それぞれの仕事に対してのアプローチの仕方です。


仙台の「堤人形」の歴史を背負う芳賀さんは、真剣な眼差しでストイックに人形づくりを行います。「プロとしては、一日の最初に、自分の調子がいいか悪いか、判断しなければいけません。一筆塗って、どうも調子が悪いな、と思えば、すぐに作業を中止して、何で悪いのか原因を考えて、次に活かせるようにしなければいけないんです。それでなければ、それまで積み重ねてきた全作業が無駄になってしまうからです。実は、このことは私の人形づくりの師である父から教えてもらったことなんですけどね。私自身は、まだまだ修行の身で、これから死ぬまでに、もっともっと自分を磨いていかなければいけないんです」（芳賀氏）。


一方、長崎の「古賀人形」づくりに携わる小川憲一さんは、ユーモアたっぷりに呑気な人形づくりを行っているようです。

「"伝統の重みが私の双肩にかかっている"なんて言葉は、とてもとても言えませんね。それよりも、”仕事だけど半分遊びのつもり”位の感じでいる方がいいですね（笑）。普段は、自然体でやって、落ち込むときは、ドスっと落ち込む。楽観的じゃないとやっておれんですよ。食っていくだけで精一杯、この時代に、人形だけで食べていくのは大変ですから」（小川氏）。


土人形師の芳賀強さん（左）と小川憲一さん（右）。どちらもとても穏やかな空気を放つ人物。


**魂と人形**

また、上の回答に加えて、「人形づくりは、魂を込めるつもりでしているのか？」の問いにも、違った答えが返ってきます。

「最近は歳を重ねて、一層、そういう魂というものを感じるようになっています。伝統工芸というものは、絶妙な技術が伝承されて形になった物として理解されていると思うのですが、芯の部分はそうじゃないと思うんです。ものをつくるときの姿勢だとか、考え方とか、作者の心構え、気構えがあってこそ、手に取る人の心を動かせる作品をつくれるんだと思います。ですから、魂というものがあるとすれば、つくり手のそういう心が込められたものということになるのではないでしょうか」（芳賀氏）

「自然に集中してやってはいます。でも、"魂を込める"と、聞かれても、困ってしまう。そんなことはなかなか自分ではわからんですよ。そんなこと言ってたら、毎日毎日繰り返す作業やってられんですから（笑）」（小川氏）

どの工程もとても丁寧になされている。

**行列のできる土人形店**

何とも対称的なふたりです。それでも、彼らの人形づくりの腕前は天下一品。彼らがつくりあげる土人形を何年も何ヶ月も前から心待ちにしている人が行列を成しているというのですから驚きです。彼らは、高い集中力で作業に没頭し、マニアやコレクターをうならせる人形をつくっていきます。この熟練の技を現代に受け継ぐ彼らは、本当に貴重な存在なわけですね。しかし、不思議なことがあります。それは、ふたりが、後継者を取るということにあまり重きを置いていないように感じられることです。でも、それは一体、どうしてなのでしょう？


鮮烈な配色が施されている「古賀人形」


**この先、土人形をどうするか**

「後継者の問題などは、今のところは思案中です。弟子入りしたいという志願者がいないわけではないのですが、彼らが一通りできるようになるまでは、おそらくは10年以上かかるはずなんです。ですから、うかつに後継者を取るというわけにもいかないんですよ。今は、気構え、心構えを正して、少しでも良いものをつくっていきたいと思っているんです。」（芳賀氏）



「一生懸命いいものつくろうとは思ってやってますけど、駄目になるときは駄目になる（笑）。私の代で潰れるという可能性も大。400年の歴史がどうこう言ったって、食えなきゃ、しょうがない。そうなったら、私は、何か他に食べていくための仕事を見つけなきゃならん。でも、そのときはそのとき。食うだけなら、何をしたって食べていける。だから、今は、諦めるのではなく、ただ、楽しみながら人形をつくれたらいいと思っています。でも、私自身が生きている限りは、古賀人形をつくり続けますけどね」（小川氏）

やっぱり、職人さんたちの後継者の問題というのは、なかなか簡単な問題ではないのですね。でも、彼らを見ていて共に感じることもあります。それはどちらも悲観を越えた楽観さを備えていて、土人形ファンを裏切らない、誠実な人形づくりをしているということです。対称的なふたりでも、この二点においては、揺るぎない。きっと、多くの人が今も、彼らに注文を依頼するのは、そんな彼らのつくる土人形には、大量生産品にはない「癒し」が宿っているからなのでしょう。焦りの中で不安な想いを抱えるワーキングプアの若者とは、どこか漂わせる空気が違うのです。


古ぼけて味の出た「堤人形」と、その型。300年以上前から伝わる


**土人形の魅力**

土人形というものを一望して、実際に、職人さんたちと言葉を交わしてみると、多くのコレクターたちが何故、これほど土人形に入れ込むのかがわかってきます。剥がれた絵の具や、欠けた目鼻など、失われゆくものの儚さを土人形は備えているのです。そこに過去を投影し、郷愁を感じる。そして、人形たちは、姿形を変えながらも、人々の暮らしを見つめます。土人形という郷土人形は、日本各地で地域の暮らしを温かく見続けてきた。だからこそ、それぞれに存在感があり、今も多くの人を魅了する。土人形の魅力、これは、もう一度、見直してみる価値があるかもしれませんね。

 </description>
		<link>http://risa-mag.com/2008/10/03/tuti/</link>
			</item>
	<item>
		<title>若き奏者に学ぶ尺八の世界 : 織茂サブ</title>
		<description>**日本を代表する伝統楽器のひとつである尺八。 この尺八を若者たちが集うさまざまな音楽イベントで演奏し、世界的音楽誌で注目を集める一人の青年がいます。今回、『PingMagRISA』彼の活動に迫りながら、「尺八」という知ってそうで知らない日本古来の文化を追ってみました。**



縦書きで記される尺八の楽譜。「ロ、ツ、レ、チ、ハ」「ロ、ツ、レ、チ、リ」西洋音階のD、F、G、A、Cの音程を示す。

**世界で注目された若き才能**

2007年、日本人の若い尺八奏者が、世界的に知られる英国の音楽誌『[WIRE](http://www.thewire.co.uk/)』で取り上げられ、高い評価を得ました。彼の名は、織茂サブ。彼独自の荒々しい演奏スタイル、宇宙の広がりを想像させる即興性の高い自由奔放な楽曲は、欧州の音楽ジャーナリストにとって斬新なものとして耳に響いたのでしょう。その後、彼の名は、知る人ぞ知る存在として、マニアの間でジワジワと広まっていきます。さまざまなところで尺八の演奏を続けるこの若者が考えていることは、尺八を現代の舞台で深く、そして軽やかに表現するということです。「きっと、尺八を吹くということは、昔は伝統とか何とかという堅苦しいものではなかったはずなのです。尺八は、今のバンドマンたちが奏でるギターのような存在で、一般の人にももっと身近なものだったはずなのです。だから、かつては、尺八をぶら下げて歩いていた奏者がたくさんいて、その姿はもっと粋で格好いいものだったのではないかなぁ、そう思うんです」（織茂氏）





**肚に響く音**

織茂氏が尺八に目覚めたのは、その音の深さに魅せられてのこと。尺八演奏をはじめる前、彼は全く違う表現活動をしていたそうです。元々は、ヒップホップやロックのDJだったのです。そんな彼の目が尺八に向くようになったのは、はじめて尺八の生演奏を聞いたときに肚に響く感覚を得たからだと言います。そして、それを何とか体得したい、そう思い至ったと言います。「尺八を学ぶようになってからは、耳に響く音楽よりも、肚に鳴る音楽にどんどんと惹かれるようになっていきましたね」（織茂氏）。

**即興ジャズの巨匠**

そんな彼が敬愛するミュージシャンのひとりが、ジャズ界の巨匠であるサックス奏者の[ジョン・コルトレーン](http://www.universal-music.co.jp/jazz/artist/john_coltrane/)。コルトレーンは、50年代、60年代に、即興による新しいジャズの世界を伐り拓いたパイオニアです。でも、どうして尺八奏者の彼が、サックス奏者であるコルトレーンに羨望の眼差しを向けるのでしょう？「コルトレーンは、早逝されましたけど、彼は音楽で非常に高い精神領域に達していたと思うんです。音楽やジャズというものを越えたところで演奏しているのが素晴らしい。僕自身は尺八を吹くことで、少しでも彼の高見に近づけたらいい。そう思っているんです」（織茂氏）。

尺八をつくること、製管も行う織茂氏
やすりで歌口を削る



**そのルーツは**

織茂氏のルーツを探ってみると、いわゆる尺八奏者とは、明らかに一線を画すバックボーンを背負っています。それには、もうひとつの理由があるのです。「僕の両親自体が前衛音楽家なんです。だから、僕自身にとって、前衛的な文化というものは、ごく当たり前のものとしてまわりにあったんです。親はいつも自分の店（オーガニックなリサイクルショップ『音の家　月見堂』）で叫び声が鳴り響くような音楽ライブを開いていましたからね（笑）。今思えば、ありえない位、前衛的な家で育てられたなぁと思いますけど（笑）。彼らは、パンクロックやノイズ音楽、それからシャーマンや御神楽などから影響された、独自の音楽を演奏するんです」若いながらに『WIRE』で高く評価されたのも、彼の歩んできた道筋を考えれば、「なるほど！」と合点がいきます。

**深い呼吸**

しかし、コンテンポラリーでアバンギャルドな尺八の旗手というイメージをまとう織茂氏が口にするのは、意外なセリフです。「僕がやりたいのは、もっと地に足がついたものなんです。奇をてらうようなものとか借り物の演奏ではなくて、土地に根差した土着の演奏なんです。言ってみれば、究極的にローカルなものですね。そのローカルなものというものをどんどん追求していったら、それは最終的にそれは個人になります。だから、いい演奏は個である自分に自信が要求される。そして、その自信を高めるのに重要なのが、呼吸なのだと思っています。実は、僕は、みんなが深い呼吸ができるようになれば、個々が自信を持てるようになるし、余裕がでるから、社会も今よりずっと良くなると思うんですけどね（笑）」（織茂氏）。

自ら音を鳴らしながら尺八づくりを行う



**深い呼吸での演奏**

確かに、彼が尺八の演奏を始めると、彼の柔らかかった表情も、みるみるうちに自信に漲った緊迫感ある顔になり、あたりの雰囲気さえ変ってくるように感じられます。そして、神秘的な空気さえ立ちこめてくるようです。そして、織茂氏の演奏する姿を見ていると、日本という土地に存在したさまざまな尺八奏者たちの顔が浮かんでくるようです。


**尺八とは？**

ところで、尺八というのはどのような楽器なのでしょう？　尺八は日本の伝統的な楽器です。とはいえ、こうした文化は海の向こうから伝来するというのが、日本文化の流れです。その点においては、尺八もご多分に漏れません。尺八も、やはり日本で生まれたものとは、言い切れない文化のようです。その伝来は、奈良時代以降、大陸から渡ってきた音楽家（楽人）が持ち込んだものだと言われています。そして、日本の地で独自の進化を遂げたのが、多くの人たちが知る尺八なのです。歴史上の人物としては、幼少時代の聖徳太子も一休宗純（とんちで有名な一休さん）もこの笛を吹いていたようですね。材質は、もちろん竹。その特徴は、多くのものが一尺八寸（約54.5cm）。気付かれたでしょうか？　「尺八」という名前、実は、この長さに由来するのです。穴は前面に4つ、背面に1つ。ほとんどの場合、7つの節を含むようにつくられています。そして、奏者は、5つの穴を指で押さえ、自分の口の形を調整し、歌口（吹く部分）と距離を取ることで、さまざまな音を奏でることができるのです。それが尺八という楽器なのですね。

作業は音を鳴らしながら行わなければならないため、自宅付近の公園で行われる


**虚無僧と尺八**

ところで、尺八と言えば虚無僧です。編み笠を被り、托鉢を行う彼らの光景は、誰もが知るお馴染みのものです。でも一体、どうして虚無僧たちは、尺八を吹かなければならなかったのか？　その答えが面白い。そもそも虚無僧とは、禅宗の一派である普化宗の徒。そして、この普化宗という一派の教えの奥義、それが竹管を吹くこと、つまり尺八演奏なのです。この宗派にとって、尺八は座禅の代わりとなるもので「吹き禅」と呼ばれる瞑想だったのですね。だから、尺八は楽器ではなく法器、つまり宗教的道具として見なされていました。この尺八瞑想を通じて、森羅万象、八百万と一体になる。虚無僧には、浪人や罪人が多くいたと言われています。きっと、彼らも食いブチのない苦しみや罪の穢れから救われたい想いも強かったのでしょう。尺八の音色の深さには、そんな彼らの行き場のない悲しみも混じっているようにも聞こえます。

  



**現代を生きる虚無僧が往く**

さて、時代は戻って現代です。こうした尺八の歴史を担い、リアルな現代を生きる織茂氏は、一体、どんな想いを胸に尺八を奏でるのでしょうか。「やっぱり、僕も感謝したり、祈る謙虚さを持つということは本当に大切なことだと思っているんです。でなければ、世の中は、互いが互いをむさぼり合い、競い合う世界にしかならない。それでは、どこまでいってもキリがありませんから。僕は、尺八を奏でるとき、音楽としてよりも、祈りや瞑想として音を鳴らしたいなぁ、そう思っているんですよ」。そう語る、織茂氏は、現代に生きる虚無僧のような匂いも醸し出しています。ちなみに、織茂氏は、自ら尺八をつくり、そして時には、それを人に売る製管師でもあります。新しい時代に生まれ出た新しい才能を持った尺八奏者。彼には、これからも一層の活躍が期待できそうです。世界に羽ばたく日本人アーティストとして、これから先もっと大きな成功を見せてもらいたいものですね。

大倉山記念館で行われた『ちゅらかさのまつり』で熱演する織茂氏




**尺八のススメ**

ところで、ここまで記事を読み進めると、「尺八を習ってみたい」そう思われた方も少なくなかったはずです。そこで、湧くのが「尺八って、難しいの？」という素朴な疑問です。調べてみると、一部では、「首振り3年」などと言われるそうで、その演奏が難解だと受け取られることもあるようです。しかし、事実はそうではない（もちろん深く追求するのは別ですが）。正しい指導者の元で学べば、30分程度で簡単な旋律が吹けるようになると言います。「実は、尺八は、40代、50代の大人がはじめる楽器としても知られているんですよ」（織茂氏）。主な流派には、都山流と琴古流がありますが、基本的には演奏法に大差はない。近頃は、プチ瞑想、プチ座禅などというものも流行っているので、楽しみながら気軽にはじめる「プチ吹き禅」として、尺八をたしなむのもなかなかオツなのではないでしょうか。ちなみに、前述の織茂氏も個人レッスンや楽器の受注を受けています。ご希望の方は、彼のご両親が営むリサイクルショップ『音の家 月見堂 (tel:044-866-0956)』まで問い合わせてみて下さい。また、近々の情報としては、上野の[ギャラリー空](http://www.k5.dion.ne.jp/~art-cafe/index.htm)にて、2008年10月5日（日）14時から[谷中アートリンク](http://artlink.jp.org/)のイベントとして、演奏を行う予定です。興味のある方は是非、足を運んでみてくださいね。





取材／鈴木隆文




 </description>
		<link>http://risa-mag.com/2008/09/26/shakuhachi/</link>
			</item>
	<item>
		<title>幻をたずね、島を往く：五島列島</title>
		<description>**先週の記事で紹介した「[五島うどん](http://risa-mag.com/2008/09/12/udon/)」。このうどんが生まれた土地が、五島列島であることは、その記事の中でも触れました。しかし、この五島という場所について、語ろうとすると、どうしてか上手く語ることができません。全体像が、掴めそうで掴めない。輪郭が、霧や蜃気楼のようにぼんやりしているのです。五島うどんが幻のうどんであるならば、五島列島は幻の島々というわけです。そんなわけで、今回、PingMag RISAでは、まだ暑さが残る9月に最後の夏の空気を感じてもらおうと、五島列島を取材しました。この幻の島を俯瞰してみることで、日本の西端に位置するこの島々をのぞいてみましょう。**




**幻その一、島々とエリア**

五島列島とは、列島というぐらいだから、いくつかの島々から成っています。そして、その数が驚きです。何と140余りもの島々から構成されているのです。もちろん、この中には本当に小さな島というものもあります。すると、この140の島の中で本当に主要な島というものがあるはずです。調べてみると、福江島、久賀島、奈留島、若松島、中通島の5つの島、これらが主要の島だそう。だから五島列島と言うわけですね。そして、この島々が位置する場所は、長崎県の西方。帰属する県も、長崎県。では、帰属する市はどこになるのでしょう？　実は、これが2004年に誕生した五島市です。それまでは、福江市、南松浦郡富江町、玉之浦町、三井楽町、岐宿町、奈留町の1市5町でした。しかし、一挙に1市になる合併が行われ五島市というものが生まれたのです。しかし、五島列島には、他にもうひとつのエリアが残っています。それが、上五島町というエリアです。うーん、何だかわかりづらいですね。そうなんです。五島列島を幻にしているのは、この五島列島のつかみどころのなさにも関わりがあるのです。ちなみに、今回訪れたのは、この上五島というエリアです。





鯛の浦の教会



**幻その二、五島へのアクセス**

幻のうどんを生んだ西の島々、ここは島自体も幻の雰囲気に包まれています。まず、そのアクセス方法を探ってみましょう。この地へ降り立つためには、空路と海路の二つの選択があります。空路の場合、福江空港を利用します。長崎空港からは30分、福岡空港から40分、大阪空港からだと1時間15分の航行時間。海路の場合は、長崎港か、佐世保港から渡れます。高速船だと1時間半、フェリーだと2時間半。どのアクセスを選ぶかは、旅程と懐具合と相談してみてください。（[詳しくはこちら](http://www.pref.nagasaki.jp/sima/island/gotou/access/index.html)）いずれにしても、いろいろな方法で行き着くことはできる。そして、このアクセスのバラエティの多さも、五島列島を幻にしてしまっている大きな要因なのです。どこから、どの島へ、どの路でアクセスしたらいいのか、わからない。でも、PingMagRISAの読者の皆さんは、既にアクセス方法についてはわかったわけですから、是非、気持ちを幻の島々に向けて欲しいものです。






**幻その三、この地を代表するものって？**

さて、気持ちを向けるといっても、ここには一体何があるの？　そう思う人は決して少なくないはずです。実は、ここ、一見、端切れの連なる小さな土地ながら、誇れる物産や景勝の多い、さまざまな魅力に溢れた土地なのです。だからこそ、訪ねる人はいろいろな下調べの情報に目移りする。あれもこれも、と考える。すると、結果として、その魅力がとてもわかりづらいものになってしまう。五島うどんをはじめ、椿油、真珠、クジラ、カッパ、かんころ餅、そして中国では最高級品として知られる五島の蚫などなど、魅力をあげはじめたらきりがない。しかし、もしも「五島列島とは何か、簡潔に答えよ？」と問われたなら、次のような答えが妥当なのではないかと思うのです。「五島とは、豊かな自然に恵まれ、美味しい魚介類に恵まれ、異国の歴史文化遺産が多く残されているところです」と。


国立公園でもある蛤浜のビーチ。地元のタクシードライバー高田邦生さんが、日本で一番美しいビーチと言うのもうなずけます


**自然、魚介類、異国文化**

では、この地で、一体どんな観光ができるのでしょう。この問いに答えてくれたのは新上五島町でタクシードライバーを勤める高田邦生さんです。「ここは、世界一美しい海岸があります。少なくとも日本一であることは間違いない。私は、前職の仕事の関係で日本全国いたるところに住んでいましたが、五島の海ほど美しい海を見たことはありません。ここにいれば、沖縄の海にだってハワイの海にだって行く必要がないんですよ。そして、また、この島々には、美しい遺産があります。それはキリシタンたちが残していった教会郡です。これらは今、世界遺産に登録しようという動きもあるんですよ。それに御飯は何を食べても美味しいでしょ？」。なるほど。地元愛に溢れつつも客観性を忘れずに語ってくれる彼の話を聞いていると、確かにここが目と舌と好奇心を満たしてくれる場所であるとうなずけます。この島の浜辺は驚くほど美しいし、そこここにある景勝地。そして、緑の中に点在する教会は、あまりにも美しい建物の表情を浮かべているではありませんか（建物の風情としては、以前に紹介した[長崎銀行本店](http://risa-mag.com/2008/08/15/nagasakibank/)の雰囲気と近いものが感じられます）。高田さんは、言います。「もし五島に2泊か3泊していくなら、海で遊ぶ以外には、教会巡りをすることをお薦めしますよ。とにかく、歴史を通り抜けた美しさを実感できるはずですから」。

春から夏にかけて五島列島は、サキシマフヨウ（上段）とタマスダレに彩られる



**幻その四、隠れキリシタンが移住した土地**

しかしながら、この土地、どうしてキリスト教の教会が多いのでしょうか？　それは、長崎や熊本からの隠れキリシタンたちがこの島に移住したという歴史があり、かつてこの島は隠れキリシタンの島だったからです。豊臣秀吉による[バテレン追放](http://ja.wikipedia.org/wiki/伴天連追放令)、そして江戸幕府の行った[禁教令](http://home.att.ne.jp/wood/aztak/kinkyourei.html)。これは、[南蛮貿易](http://www1.cts.ne.jp/~fleet7/Museum/Muse023.html)で地方大名が力を防ぐために取った政策だったそうですが、それでも、やはり迫害された信者たちはたまったものではなかったでしょう。そして、当時、五島から大村藩に送られてきたのが、五島に開拓民を送って欲しいという移民の申し入れだったのです。当時、大村藩に住む庶民たちの間では、五島列島は桃源郷のように語られていたと言います。そして、これに飛びついたのが、隠れキリシタンたちでした。記録には、1797年から1799年の2年間で3,000人もの人が移住したと残されています。ところが、実際にこの島に渡ってみると、その暮らしは、決して楽なものではなかったようです。生活苦に見舞われた五島への移民たちにとって、心の拠り所はキリスト教だけ。つまり教会だけだったのでしょう。そんなことが背景にありながら、信心深い信者たちは、この島に次々に教会を建てていったわけですね。数々の美しい教会には、信者たちの想いや信仰心が、幻のように灯されているのです。


上五島だけでも、29ものカトリック教会が点在している



**幻の島の美しき景色**

さて、硬い歴史の話はこれくらいにして、ここでは今一度、今回の記事に掲載した写真で五島の景勝と教会を楽しんでみてください。実は、本記事の写真の多くをご提供くださったのは、先述のタクシードライバー高田邦夫さんです。地元の、しかも土地を知り尽くしたタクシーの運転手さんである彼の写した風景は、心を優しく癒してくれます。この教会と自然の数々。こんな素晴らしい自然と文化遺産が、この島々には至るところで見つけることができるのですね。多くの人は、この写真を見ているだけで、きっとこの土地を訪ねたくなるはずです。



**幻その五、その他の幻的情報**

さらに、五島列島が幻であることを強調すれば、この地は実は、[岡田喜秋](http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B2%AC%C5%C4%B4%EE%BD%A9)、[C・W・ニコル](http://www2.odn.ne.jp/~cat14420/nicol.htm)、[立松和平](http://www.tatematsu-wahei.co.jp/)、[辺見じゅん](http://ja.wikipedia.org/wiki/辺見じゅん)、[椎名誠](http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C4%C7%CC%BE%C0%BF)によって、日本の秘境百選にも選ばれています。秘境という響き自体、幻の島に相応しい。そして、2006年、日本政府が発表した情報としては、石油埋蔵の可能性が高い！ということです。これも宝探しに行く冒険家の気分を煽ってくれる幻的情報ではないでしょうか。というわけで、五島にちなんで、五つの幻を挙げてみました。


上五島洋の石油備蓄基地


**五島へ行こう！**

さて、これが、幻の島々、五島列島の概況です。少しは幻という霧が晴れたのではないでしょうか？でも、実際に行ってみなければ、五島の魅力はわかりません。ありきたりの観光地を目指すなら、是非、日本にあるこういう隠れ里を訪れてみて下さい。かなりユニークな体験ができるはずですよ。




五島列島で目にする海に沈む夕日は格別に美しい。

取材／鈴木隆文
写真提供／高田邦生




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		<link>http://risa-mag.com/2008/09/19/retto/</link>
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